Resonance

快復への道のり

自他

この話を始めると、結局のところ、アドラーのテツガクに行き着くことは分かりきっている。なぜなら、「嫌われる勇気」を読んで、この稿を書き始めたから。

 

自分とその他大勢、という世界認識は、おそらく、生物学的に得られているものだろう…って当たり前か。五感が集約されているのが個体としての私であり、五感のうちでも視覚優位なヒトにおいては、だいたい意識の中心は両目の間にあるような気がしているはずだ(よくよく考えたら、目が見える人に限った話だった)。

 

ASMRという、まるで自分が話しかけられているような聴覚体験をできる録音技術で録られた作品もYoutubeには山ほどあるけれど、聴覚優位になってみると、意識の中心はわずかに後に下がって、両耳の中間点あたりになるような感じを受ける。ささやかな移動だ。

 

かくして、個人としての自己意識は自分中心に成立している。個体として生き抜くよう進化的に適応淘汰された末の、当然のような帰結だろう。

ボルボックスや粘菌といった群体を形成する生物の意識がどうなっているのかは、想像するしかないが、想像も及ばない。3次元世界に住まうものに、4次元が認識できないようなものかもしれない。

 

…このあたりは余談だった。

 

自分中心に意識が成り立っているから、自分中心に考えて、その他大勢は敵か味方か、みたいな発想に至るのは、生物的に適当なのだと思う。個の確立、人格の形成、いずれも自他の区別があるからこそ成り立つのだろう。

 

さて、ここまで書いてきて、結構虚しいけれど、それではなかなか生きていきにくいよね、共同体に帰属せざるをえない人間としては、というオチ。

腐るほど読んできたような言説だけど、ようやく受け入れる素地が整ってきたような気がする。

 

私は人間社会に生きる、多くの人間の中のひとりであり、誰もが基本的には自己を中心軸に据えた世界の中の一部なんですよ、という世界認識。

 

わたしはヒトだが、はやく人間になりたい。

 

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