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Resonance

快復への道のり

怒り

上映中の邦画のことではなくて、感情としての怒りについて。

 

自分語りばかりなのはもう、詫びる必要もないだろうが、基本的に感情の動きが乏しい、あるいは表出しにくい人間なのでは、と自認している。

 

最も素直に出せる、出てしまう、押し殺せない感情は、焦り、かもしれない。

 よく、落ち着け、落ち着け、と思いながら、かえって時間が掛かってしまうくらいドタバタと焦って行動してしまうような、でも実は時間的にはまだ余裕あるんだけどね、という状況になる。という認識。

心理的負担にもなっているので、余計そう感じるのかもしれないけれど、焦りに振り回されてしまいやすいと感じている。

 

怒り、の代わりに出てくる感情は何か、といえば、焦りもあるし、自らへの不甲斐なさ情けなさ、思い通りにならぬ悲しさと悔しさや、なんとも出来ない自分に対する苛立ちや諦め、なんじゃないだろうか。

あからさまに、他の誰かや状況に対して怒りをぶつけたり、叱る、攻撃的になる、ということは極めて少ないと思う。特に、業務中ならば尚更だ。

 

 

コミュニケーション障害、コミュニケーション不全ともいうべき程、業務上は自分の心情を明らかにしてこなかった。

内向きにじっとこらえて、些細な不安や怒り、困惑、不満といった、いわゆるネガティヴな感情を明かす、ということを避け続けてきた。

無知であることや、能力の至らなさ、愚痴を垂れることの醜さ、他人からの失望や不満を買うくらいならば、自分がこらえればなんとかなるのではないか、と、なんの解決も望めないような、不毛な我慢を、自らに強いてきたのだと思う。

 

負の感情だけではなく、明るい、楽しげな感情もまた、こと、業務となると、閉ざしてきたように思う。

 

そんなわけで、思い通りにことが進まなければ、自らが我慢すればいいや、他の人は忙しいんだろうし、手間を取らせたくはないし、と考えてしまい、結局、あいつ全然仕事進まないし、成果も上げられない、という定評を得るようになったのだ。

他の新卒の後輩社員だって、このくらいのことは当たり前にやってるんだからと、言われもしたし、自らに言い聞かせてもいたけれど、悲しいかな、根本的なコミュニケーション障害ゆえに、どうにも進みようのないデッドロックに陥ったり、業務負荷が高く積もりすぎたり、締め切り間際の低クオリティな妥協の産物を生み出し続けたり、と、周りを活かすことができなかった。

みんな忙しいんだから、を、体のよい言い訳みたいに使って、業績の上がらなさ、進捗の遅さ、仕事を任せている人たちのパフォーマンスの上がらなさを正当化していた上に、自己犠牲を積極的に課していたのだから、なんて非生産的なんだ、と、今なら言える。

 

 

感情に基づいた表現を駆使し、いかに自分のために人に動いてもらうか、僕にとってはとても難しい、社会人としての基本の基本。

 

そんなあたりの自己理解とトレーニングに踏み込み始めたところ。

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