Resonance

快復への道のり

優しさに縋る

一つ前の話は、一旦置いておく。

今日も、午後からのプログラムは気力が追いつかなくて、キャンセルしてしまった。9月の日照時間は平年の21%、1961年以来の短さだそうだ。

 

好不調の波ができるだけ小さくなるよう、という趣旨のプログラムに、不調で参加できないのだから、皮肉なものだ。しかし、無理をしてはいけない。だが、どこからが無理なのかを主体的に判断するのもまた、難しい。

 

 

さて、余りうまく不安や弱音を表現することができず、そもそもそんな相談相手に恵まれて来なかった僕(もちろん、僕自身のせいだ)は、この人ならば、という人(当然のように女性だ)を見つけては、その場その時の優しさに縋ったり、掠め取ろうとしたり、そうやってきた。

 

優しさを与えるふりして、結局は僕ばかりが貪っていたり、近づいてみた相手が実は全く期待に沿わなかったら、あっさり関係を切ってみたり、振り返れば、自分本位の、身勝手な振る舞いを、少なくとも講義に全く出られなくなった1学年の後期から、今の会社に転職する間際まで、8年近くもしていたことになる。

 

お互いに、優しさだけが目当てなのを分かっていながら、ずるずると続けてしまって、結局は大いに傷ついたこともあった。

ただただ趣味が同じで、できるだけ寄り添おうとしてくれた人もいた。

僕よりずっと深刻な悩みを抱えたまま悶えている相手からその場限りの優しさを掠め取ろうとしたことさえ、別に悪いことだとは思っていなかった。

 

そう、これらはみんな、テキストベースでWebに文章を載せながら、mixiで交流しながら、そういう間にやってきたこと。

 

 

生き残るため、くらいの切迫した思いだったこともあったし、単にぼんやりと楽しい関係を繋げたこともあった。そして、ただただ状況に任せた。仕方ないだろう、どうしようもなく優しさを必要としてるんだから、という諦めかのような言い訳染みた開き直り。

 

実家を離れたからこそ自分の好きなように振る舞えただけであって、もっとずっと昔からの願望であり性向なのだろうと思う。そして、最後に縋った(僕にとっては恋人であったはずの)女性が、精一杯の優しさとありったけの嫌悪感を振りまいてくれたおかげで、結果的には、今の会社に移って、新たにやり直そうと思ったのだ。

 

妻帯者となった今は、どう折り合いをつけていいのか、正直悩んでいる。

妻には妻なりの仕事があり、悩みがあり、気分の変化がある。それは、ある意味では僕から独立している、妻自身の抱えているものたちだ。

 

さて、僕は、どうしたらよいのだろうか。

 

考えながら歩いて行かなくてはならない。

歩きながら考えなければならない。

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