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Resonance

快復への道のり

振り返る 決別する

自分の書いた文章を読み返すことも多い。

きっとこの文章も何度も読み返すことになるだろう。

 

テキストベースでWebに綴っていた文章は、中断期間を含めて、おそらく2004〜2012年に書いたものをログとして載せていて、当時のアクセスログから考えても自分自身が最高の愛読者だった。

かさぶたを何度も剥がしてしまうみたいに、過去を引っ掻いては、変わってしまったもの、戻れないもの、変われないものについて何度も何度も思い巡らせていた。

 

それを閉じてしまったのは、妻に近過去について詮索されたくないというのもあったし、あのスタイルを維持したままで更新する時間と手間が取れないと感じたこともあったし、無惨な私生活について語りたくなくなってしまった、というのもある。やむなし、とはいえ、僕にとってのひとつの決別。

データとしては遺してあるのだから、未練みたいなものもあるのだろう。

でも、今のところは、参照することはないし、消してしまうこともない。

 

 

一方で、全くの私的な日記的な文章も、上京してきてから、幾度かの空白期間はあるにせよ、手書きで綴っている。

こちらは、ずっと同じブランドのノートパッドに、同じ色のジェルボールペンで、とめどなく綴っている。

全く正直に書けているかというと、自分とどれだけ向き合えているかによって、その度合いは異なるのだろうけれど、そもそも誰に見せる前提でもないし、自分でさえ読み返すことはほとんどない。

そういう意味では、思考を文字起こしして、簡単に日常を書き留めて、もやっとしたものを語彙に落として、という、認知療法的な何かを果たしているのかもしれないな。

 

そこにはきっと、呆れるほど同じようなことが繰り返し登場しているだろう。

変わらなきゃと思い改めているのも、変われないでいるのも、ずっとずっと繰り返し唱えているはずだ。

そして、極めて主観的で、勝手な自己解釈が並んでいるだろう。

 

小さなノートパッドなので、もう30冊くらいはあるのだろう。引っ越すたびに実家への荷物に入れて、整理していないので、散逸しているかもしれないし、あるいは、母なら読んでいるのかもしれない。

ま、それでもいいのだ。

日々を吐き出して、そしてただ書き捨ててゆく、そういう緩やかな決別。

 

Twitterも、ときおり自分のログを読み返す。

クライアントの仕様で遡る限界はすぐそこで、鍵掛けてしまってログとっていないので、それ以上遡る方法を僕は知らない。

誰のために書いているのかも謎だ。

ただ、生きていますよ、という回りくどい表現なのかもしれない。

 

Facebookは、よそ行き。

今はこれが一番外向きの日記に近いのかもしれないな。これは美しかった過去だけをただただ保管しておく。アルバムに近い。

 

ここは、なんだろう。

できるだけ正直に書いて、自己療養を果たすための、なにか。どう書いてよいかはわからない。自分に宛てた手紙なのかも知れないし、と書いて、やはりそんなものではないな、と思い直す。

 

ふむ。

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