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Resonance

快復への道のり

撮るという行為

藤代冥砂の写真集「もう、家に帰ろう」で、彼が写真を撮るのは、その瞬間を留めておくためではなく、その瞬間がずっと続いてほしいからだ、という趣旨を語っていたと記憶している。

 

思えば、00年代の前半、SNSやblogが台頭してくる以前、スマホがWeb端末になる以前の、のどかなテキストベースの時代には、たくさんの人がフィルムで撮っていたように思う。

そこでは、写真が主題で、キャプションのような物語が付されていたような、そんなサイトも数多くあったな。

 

そんな頃、LOMO LC-AやRICOH Auto HalfにAgfaのフィルムを詰めて、いつも持ち歩いていて、画角だけ決めて、シャッターを切ってはフィルムを巻き上げていた。ほとんど、視る、ということと一体化した、そんなような。

 

 

今はもう、フィルムで撮ることもなくなってしまって、ほとんどiPhoneで、旅先では時にコンパクトデジタルのZX-1で、相変わらず画角だけ決めて、撮っている。

 

でも、撮る、ということに重点を置きすぎて、視ていないんじゃないか、と思うことが多くて。立体感と質感と、どんなに性能が上がってもたどり着けるはずのない解像度をもった実物が目の前にあるのに、ファインダーですらないディスプレイ越しに覗いて、通り過ぎてしまっていることの多さよ。

iPhoneならば、シャッター音を抑える為に、スピーカーを指で塞ぎながら撮っているのもなんだか滑稽で、ふと我にかえる。

 

最近は、マーケティングの要素も考慮して、撮影可な、SNS向けのハッシュタグまで用意された展示も増えたけれど、そこを訪れる人達は撮ることに夢中で、鑑賞しているんだかいないんだか、なんて、一歩引くとよく分かる。

 

その場を共有している、という繋がりを大切にしたいな。

 

インスタレーションを言葉で説明しにくいのと同じかもしれない。その場に出会って、触れ合って、自分の中の何かが変容する、ということを留めておきたいな。

 

旅も、それ自体が自分の作り出すインスタレーション作品なのかもしれない。

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