Resonance

快復への道のり

ゆらぐ

制震と免震の話をしてもいいけれど、よく知らないのでね。地震はこわいね。

 

さて。

 

お題だけだしておいて、何を書こうかは定めていないのだけれど、とりあえず自分のことを書く。いつものように。

 

適切なゆらぎ、というものが、人間には必要なのだと思う。社会情勢の中で、人間関係の中で。

ただ、それは、ゆらぎ、であるがこそ、自分で揺らすようなたぐいのものでもないのかもしれない。では、さっき必要なのだと言ったゆらぎって具体的に何がどうなることなの、と考えると、当意即妙な動き、というなんとも説明のしようのないものになるのだが。

ふるまう、のではなく、ふるまいとして立ち現れるような。

実に曖昧だな。

 

大洋に浮かぶ一片の浮遊物だとして、どんな流れに乗って、どこへ運ばれてゆくかは、カオス理論のような世界だろう。ちょっとしたゆらぎが、その後の行方を大きく隔てることにもなったりだとか。

何を何に喩えているんだろう。

 

ツバメウオの幼魚は、暗闇の下にいることを好むので、流木などの下に数匹ずっとくっついている様子が観察されるらしい。

だだっ広い海にあって、小さな個体が、ぽつんと漂う流木にどうやってたどり着くのだろう。

成魚になると、岩礁の薄暗い隙間に群れていたりもするのだが。どこからどうやってそこへたどり着いたのだろう。

 

どちらかといえば、海面のゆらぎを反映してきらきら降り注ぐ陽光が好きだ。

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isoform

女性と男性。ヒトは、基本的にはいずれかの性を先天的に与えられる。

 

女性性、男性性は発育と経験を通じて身につくものだろう。成長と性徴。それに付随する社会的なジェンダー観。

 

つくづく、いずれの性でもない存在でありたいと思っているのが、このところの。

所与の性と、付随するジェンダー観が不自由に振る舞いを強いてくる。

 

詮の無い話、でしかないけれど。

 

 

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沙漠はdessertのあとで

伊東豊雄建築の中で。

 

POLA MUSEUM ANNEXでは、ポーラ財団が助成した新鋭作家たちの展示。

奇しくも、洞窟壁画においては、描くことと書くことの区別はなかった、という序文が揃った作品が並んだ。

なぜ彼らは、それを留めておこうと絵具を手にしたのだろうか。

言語/非言語、意識/無意識といった軸で眺めることもできるだろう。

 

ここには何ひとつ遺すべき文字がない。

0/1に還元可能な、暫定的ななにか。

折り合う

対人関係で、どうしても避けられない感じのひとつ。

 

僕は常に、相手の意向を汲むスタンスでいたつもりだった。少なくとも、社外の相手はプロだ。

ひるがえって、社内。生産性、利益率、効率、すべては絡み合っているのは、実によく分かる。何をどう改善すべきかは、マネジメントが、少なくとも方策を明確にして、具体化して指示するものではないだろうか。

 

現実には、とにかく頑張れ、という精神論に終始していたように思う。

で、その意向を汲んだ結果が、クライアントと客先の軋轢であり、現場担当者への改善要請なのだから、たまったものじゃなかったな。

 

さて、それはもう随分と昔のことだ。

そんな状況の中でも成果を残せる人とそうでない人には分かれ、すべては現場担当者の交渉力の問題にされてしまったのだ。

マネジメントって、気楽なものだな。

 

仕事の話もここまでにしておこう。

自分の好きでやることと、やらざるを得なくてやらなければならないことを折り合わせるのは、なぜかここのところとても難しい。

内的なエネルギーが不足している、消耗しているのだろうと思う。

自然に回復を待つよりは、外部から調達してきた方がよいな、と思うにいたったのだけれど、皆はそれぞれの立場で、動いているのだ。

 

求めるばかりで、何かを与えられるようになれない僕は、さて、どうしたらこの状況と折り合えるのだろう。

 

そしてきっと、この折り合おうとする行動もまた、他の誰かの気分を害するのだ。ほとんど、確実に。

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だれも知りたくない

写真、真実を写すらしい。

でも、フィルターやコントラストをいじった方が、より好まれる。

だれも、真実そのままを望んではいないのではないだろうか、という問い。

 

「この悲惨な現実を直視しなければならない」という主張もまた、人が常に向き合えるものでもなくて。直視できるだけのいわば余裕のようなものが、なくてはただただ痛ましいばかりだ。

 

たぶんだけど、基本的に常人は、より美しくて好ましいものを見たいと願うようにつくられているのだと、特に何の前置きもなく思う。

実在性のなさ

匿名的であること、実態のつかめないものであることの魅力。

 

バンクシーが魅力的なのは正体が謎だから、というのもあるだろう。

 

人であれ何であれ、表層や内実を事細かに明らかにすると、そこには批評が生まれてしまうから。

 

もちろん、美しいものはある。

しかしそれは、そうでないものとの対比になってはいないだろうか。

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分からない

分からない/分かる、に善し悪しはあるのだろうか。

分かり合えない、とかだととてもネガティヴな響きだけど、他人の考えなんて特に、分かるわけはない、という前提に立っておくのが僕のスタンスなのだが。

しかし、これもまた、あまり分かってもらえる考え方ではないだろうな、というのも感じていて。

自分の言いたい本質にすらたどり着けないのに、人に分からせようだなんて、そもそも無理なんじゃないか、という立場をとる。

分かった気になることは出来ても、分かることはないんじゃないかな。

そして、分からないことで、分かろうとするのならば、救いでもあると思うのだけれど。

分からないひとが分かろうとするのを諦めてしまうのは、それはそれで自由というか、僕の力の及ぶところではないのだ。

 

というわけで、コミュニケーションの前提をそもそも履き違えている可能性はあるのだけれど、コミュニケーションの前提なんてのもまた、ある種の幻想なんじゃないの。

同じ言語で話せているからというだけで分かり合える、ということがないように、ね。

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